悟り
こういう学びをしていると
必ずぶつかるのが
『悟り』
という言葉。
めちゃくちゃ崇高な
自分を徹底的に戒め、常人には到底到達する事の出来ない境地。
以前の私はこのように認識していた。
いろいろと学んできてそうではないという事はわかっている。
あくまでも推測ではあるが、自分を極限まで戒め常人には到達することの出来ない境地とする事で"心の力”を使う事に気づかせないようにしていたのではないのだろうか。
一般人が"心の力”を知ってしまえば今のようにひと握りの賢く権力を持つ方々がおいしい思いをし続ける世界にはならないからだ。
ピラミッドのてっぺんに立つ者だけがおいしい思いをする、今の世の中は間違いなくこの仕組みで成り立っている。
ここからは個人的な意見となるが
そもそも自分を"正しい” "間違い"で戒めたところで
心は苦しいだけである。
苦しみがある状態で『悟り』が成立するとは到底思えない。
これがお釈迦様の説かれた
「難行、苦行悟りにあらず」
の本来の意味ではなかろうか。
では『悟り』とはいったい何?
となってくるが、
今の私の認識では
普段、無意識に行っている事に気づく事
それはひとつではなく無限にある。
これがゴールだ〜!!
は存在しないのである。
ひとつの境地としてお釈迦様が到達したであろうという境地はあるが、これですら過程に過ぎない。
本当に悟りを知っている方ならば
すべては永遠に変化し続けるという事をわかってらっしゃる。
余談だが、次の記事にてお釈迦様をはじめ、歴史に名が残ってる方の"悟りの境地”をかいてみるとしよう。