幸せの向こう側〜心はすべてを超えている〜

頭を使わず心を使っている人を天才と言います。

悟り 2


前記事からの続き





お釈迦様をはじめ、歴史的に名が残ってる方々は何を悟ったのか⁉︎



あくまでも私の推測である事をご了承願いたい。




まずはじめにすべてはエネルギーであるという大前提の基に


すべては認識で出来ている。



私は人間であり男であり日本人であり○○才であり仕事は○○で住所は○○である



とこのように、私と言うものはすべて認識から産まれ、その通りにそれとして演じている。


これはとてつもなく当たり前の事であり誰も疑いはしない。



ただ、この認識する前の状態、すなわち無色透明なエネルギーの状態がある。

そして認識する者の存在も観えてくる。


結局はすべては自分なのだが


これを言葉にすると"真我""根源”"始源の光”"仏陀”と言ってみたり...



ただただそれに気づき(悟り)それとして生きたのであろう。



それは創造主でもあり、そのひとつのエネルギーが全体であり、すべての現象であり体験するものである。



本来はみんな間違いなくそれであるのだが、その部分は無意識の領域であり、普通は観念があるからどうしてもそうは思えないし、それとして生きる事も出来ない。



言葉で現すならば、人間の陰陽の心を超えた光の境地と言えよう。



そしてその境地のまま生活し、それである事を貫き通したはじめての人物がお釈迦様なのではないだろうか。



今でこそ、心に寄り添う事により過去のトラウマや自己認識のとらわれから解放するのは用意ではあるが、この時代に追求された方々はやはりすごいと思う。


究極、自分が創り出したセカイに入り込んで体験しているだけだという事に気づいてしまえば、悟りを追求する必要も無くなると私は思う。

悟り



こういう学びをしていると


必ずぶつかるのが


『悟り』


という言葉。




めちゃくちゃ崇高な


自分を徹底的に戒め、常人には到底到達する事の出来ない境地。



以前の私はこのように認識していた。





いろいろと学んできてそうではないという事はわかっている。



あくまでも推測ではあるが、自分を極限まで戒め常人には到達することの出来ない境地とする事で"心の力”を使う事に気づかせないようにしていたのではないのだろうか。



一般人が"心の力”を知ってしまえば今のようにひと握りの賢く権力を持つ方々がおいしい思いをし続ける世界にはならないからだ。


ピラミッドのてっぺんに立つ者だけがおいしい思いをする、今の世の中は間違いなくこの仕組みで成り立っている。



ここからは個人的な意見となるが


そもそも自分を"正しい”  "間違い"で戒めたところで

心は苦しいだけである。



苦しみがある状態で『悟り』が成立するとは到底思えない。



これがお釈迦様の説かれた


「難行、苦行悟りにあらず」


の本来の意味ではなかろうか。




では『悟り』とはいったい何?



となってくるが、



今の私の認識では



普段、無意識に行っている事に気づく事



それはひとつではなく無限にある。


これがゴールだ〜!!

は存在しないのである。



ひとつの境地としてお釈迦様が到達したであろうという境地はあるが、これですら過程に過ぎない。



本当に悟りを知っている方ならば


すべては永遠に変化し続けるという事をわかってらっしゃる。




余談だが、次の記事にてお釈迦様をはじめ、歴史に名が残ってる方の"悟りの境地”をかいてみるとしよう。

愛は与えるもの



『愛は与えるもの』


そんな人が素晴らしい。


私もそんな人に憧れていた時期があった。



本音は...


苦しかった〜(泣)




それもそのはず、自分自身が満たされてない状態で与えてる訳だからそれには無理がある。


そこには見返りを求める心があるわけだから見返りがなければ悔しいし怒りも出る。



本当は自分がそうしてもらいたくそれを欲していたのだから...



本来は満たされた心のエネルギーが相手の心ちゃんを癒し満たしてあげれるのだが、こんな事は誰も教えてはくれない。



人を幸せにしたいなら、まずは自分の心を満たしてあげる事。




満たして満たしてお腹いっぱいで溢れ出た部分を周りの人に与えてあげれば良い




例えるなら


まず自分がケーキをお腹いっぱいになるまで食べる


お腹いっぱいで食べれないケーキをあげればよい


自分も相手も幸せである。





これが


『愛を与える』


自然な姿形であろう。。。




この世界の人達みんなの心が満たされてる世界


そんな世界を体験してみたいものだ。